里親和尚の話


潮音山正泉寺は、里親制度を持つお寺であり、 前住職の齊藤慶光師はその制度を始めた「里親和尚」として広く名を知られています。

里親制度とはなんなのか?
里親和尚とは何をした人物なのか?

そういったことを読みすすめていく中で、現行の児童相談所などより濃い、 「仮」とはいえ本当の「親子の愛」について、また献身的な努力の すばらしさについて、少しでも感じて頂ければ幸いです。


・里親和尚とは?
・里親和尚のあゆみ
・里親和尚と社会福祉
・里子とのエピソード
・里親制度の今後

 
里親和尚とは?


潮音山正泉寺は、里親制度を持つお寺であり、 前住職の齊藤慶光師はその制度を始めた「里親和尚」として広く名を知られています。

里親制度は昭和二十三年、児童福祉法制定に伴い発足しました。 昭和二十八年度「市町村と児童福祉」では里親制度とは、 「家庭に恵まれない者を、自分の家庭に引き取って熱意と愛情を持って 育てようとする篤志家に預けて(中略)将来よい社会人となるように保護育成しようと する制度のこと」とあります。

里親和尚こと前住職齊藤慶光師は、この里親制度が世間に広まるのに一役買い、また、 以前には他人の子供を預かり育てたということが問題となり 「人身売買地区」などと新聞等で騒がれた黒岩地区の汚名を返上し、 慈悲心に篤い篤志家が多い「里親地区」として全国的に有名な地区にまで ならしめたのです。

和尚は、自らが先立って里親となり多くの子どもたちを預かり養育しただけでなく、 正泉寺のある黒岩地区で里親制度を浸透させ、昭和二十九年には 現在の二宮地区の里親と大磯地区の里親とが集まり、 里親会を結成し名称を「曹交里親会」として正式に発足させました。 これは新聞にも大見出しで報じられ、里親和尚の名は一躍全国に広まっていったのです。


 
里親和尚のあゆみ


「私はこの村に一生骨を埋めるつもりだ。なにかしら村の人々のために役に立つような仕事を したいと思っている。今、人身売買地域と世上に騒がれているが、何とか素朴な 人々を救ってやりたいと決心した。いろいろ考えてみたが、私たち夫婦二人が正式に里親の認可を 受けて不幸な子供たちの面倒を見てやりたい。それが成功すれば村の人々にも 里親になるように呼びかけたいと思っているがどうだろうか。」

潮音山正泉寺前住職の齊藤慶光師は、ある日正子夫人にこう持ち掛けました。 これが里親和尚の固い決意となり、のちの成功を産むに至ったのです。

これにはこういういきさつがありました。
昭和二十三年、児童福祉法が制定され、発足しました。その法律は、他人の子供を 働かせる目的で養育することはまかりならないと決められていることを、当時人々は あまり知りませんでした。

当時黒岩地区では山形から子供を連れてきて養育しているという事例が多く ありました。
しかしそれはけして残酷なものではなく、子供を愛情をもって養育しているという ことがほとんどだったにもかかわらず、 昭和二十四年一月十二日、各新聞に黒岩地区において集団人身売買がおきていると 報じられ、世の指弾を浴びることとなりました。

いかに貧しい家庭の子供を救済することが目的であったとしても 、事実上人間の身柄を金銭で取引すると言う行為は正しくないのだと 村人たちに理解させることが大切だと、和尚は考えました。
そして問題を村人たちと話し合う中で、一人の少年の取り扱いをどうするかという 問題に突き当たったのです。 その「取引された」といわれる子供たちの多くは、村の子供たちと共に 正泉寺によく遊びに来ており、その、 少年も和尚一家によくなついていたので彼を寺で養育するようになりました。

これが里親和尚のスタートとなったのです。

そして、人身売買地域というレッテルをはがすために、多くの助言を参考にして 和尚は次のような方針をたてました。

―金銭的な問題が絡んでいると子供の取引は完全な違法行為であり、それら一切を 白紙に還元すること。その上で現在の法律にのっとって運用を考えること。 具体的には、まず和尚夫妻が正式な里親の認可を受け、本当に子供に 愛情を持って育てることの意味を具体的に村の人たちに示すこと―

そして冒頭に書いた和尚の妻への提案がうまれるのです。
里親になるには様々な厳しい条件がありましたが、里親和尚はこれをクリアし、 正式に里親として認可されるに至りました。
「これで不幸な子供たちを幸せにし、少しでも社会に役立つことができるのだ。 今後は人買地区の汚名をそそぎ、全地域の人たちが里親になれるように努力しよう。 経済的に豊かな地域ではないが、人情の厚い素朴な人柄が多く、 多くの他人の子を育てた実績もある、きっとこの黒岩地区は里親地区として発展するはずだ」 とそのとき和尚は心に決めるのでした。

そして村人たちのもとをまわり、丁寧に説明していくうちに、徐々に 里親を受け入れてくれる人々を増やしていき、昭和二十七年には十一軒もの 里親登録者をみるに至りました。

預かった子供たちの不幸な生い立ちに里親になった人たちは心から理解ある 態度を示しました。困難な問題が起こった場合、人々は和尚のところに 相談にきて、共に悩んだのでした。

そして昭和二十九年には 現在の二宮地区の里親と大磯地区の里親とが集まり、 里親会を結成し名称を「曹交里親会」として正式に発足させました。

そしてこのことが昭和二十九年八月五日、産業経済新聞に写真入大見出しで報じられたのです。
「齊藤住職の努力実る 共鳴を呼んだ里親運動 三つの町が集団で結成」 この中で、里親和尚こと齊藤住職は、「現代の良寛和尚」という賛辞を与えられるのです。

このころでは全国でも里親制度が隆盛していて、昭和二十九年の三月末までに 登録された里親数は一万三千二百八十八名にものぼり、その中で児童が委託されている 里親数も七千二百七十一名、委託されている児童数は八千四十一名と、五年前の 六倍にも上っています。

そんな時代背景を追い風に、里親和尚は里親地域の発展と、 自らの里親としての成長を目標として日々努力を続けていきました。 全国里親大会に出席したときには、里親として学ばなければならない ことに改めて気づくとともに、多くの人と里親の感動を分かち合い、 里親になった感激をさらに深めていきました。 里親和尚は記録に残っているだけでも

里親委託の児童 二十三名
右以外の児童  十六名
成人      十二名

   計       五十一名

と、多くの里子を育てました。
その後も多くの困難に負けずに、地域に里親制度を根付かせ、 里親制度を発展させるのに多大な尽力をしていったのです。

里親和尚と社会福祉


里親和尚の社会福祉面での活躍は、里親として活躍する前から、個人的に援助を求めてくる 人たちに対して、親身になって世話をしてきたことから始まりました。

食料の悪かった敗戦直後に、寺の境内に丹精こめて作った南瓜、落花生、芋類などを檀家や 知人などに無償で分けてあげたりしていたのです。
この無償の行為が村人たちに認められることになり、民生委員常務を引き受けることとなり、 併せて少年保護司に任命されました。

この二つの重要な役目を引き受けたのが和尚の社会福祉活動への第一歩となり、 そのことが里親和尚へとつながっていくことになったのです。

民生委員としての活躍の第一は「民生金庫」の創設です。
当時の産経新聞には
「生活保護世帯にありがたい話、無利子無期限の金融、大磯町国府部落、齊藤師が 民生金庫設立」という四段抜き三行見出しと共に、 和尚の作った金庫がいかに便利で斬新で実状に則しているかを誉めたたえる記事が 掲載されました。

また、もうひとつの実例を挙げるならば、潮音山児童会館を設立したことです。
民生委員、少年保護司、そして里親と言う順序で社会福祉の道に関与していきましたが 、その間に「人を救うのはお金だけではなく、心のケアが大切だ」ということと、 「国や県の行政が行き届かない地方では、地域活動が重要だ」ということに 気づいていきました。
そして児童会館を設立したのです。
その後、児童館を保育所にするため、和尚の夫人が保母の資格を取得し、 夫婦一体となって努力し、保育所の開設にこぎつけました。

その後、この児童会館は里子の不注意で全焼してしまいますが、里親和尚たちの 努力は、地域の人や周りの人に確かに力を与え、救済を与えることになりました。

こうしてみると、里親和尚の人望と実績は、一朝一夕に運だけで築かれたものでは ないことがお分かりになると思います。
荒地の破れ寺だった正泉寺をゼロから再興し、 地域のため、人のため、子供たちのために、全て献身的・利他的な精神で 努力をかさね、頭と体をフルに使って長年活動しつづけた、その成果 であるのです。


里子とのエピソード


昭和四十二年十二月十一日は和尚夫婦にとって忘れることのできない喜びの日となりました。 それは、里子第一号として夫婦の元で育ったMくんがめでたく正泉寺で結婚式をあげたからです。 この少年こそが、齊藤里親和尚をして里親地区を開拓しようと言う悲願を たてさせるきっかけとなった上記の少年でした。

Mくんは三年間和尚のもとにいたのですが、ある日過失で児童会館を全焼させてしまい、 その後養護施設で成人し社会人となり、それ以後消息が知れなかったのでした。

蔭ながらその無事を願っていた夫婦の前に、十六年ぶりでひょっこり Mくんが訪れてきたのが縁となり、齊藤里親和尚が間に立って正泉寺で 婚姻をあげることとなったのでありました。

それ以後、まもなく里子同窓会も開かれました。
集まった子供たちは二十六名、会場の準備から料理の仕度まで みんな同窓会の会員たちの腕に任せました。 日ごろは静かな境内も、その日ばかりは縁日のような賑わいであり、 幼い子供たちも一緒になってみなはしゃいでいます。

幼いころの面影を追いながらみなすくすく育った姿を見ていると里親和尚の胸に 新たな力がわいてくるのでした。

里親と言うと、本人たちに労多く功少ないようにとられがちな課業であるが、 里親和尚にとっては、そして精魂込めて里子を育てた里親たちにとっては 里子たちが立派に育っていくだけで報われた、またはそれ以上の幸福と 喜びを与えてくれるものなのです。

 
里親制度の今後


少子化の進む現代において、里親制度は以前のような隆盛を見せることは もうないかもしれません。
現在は児童相談所も整っているからいらないという方もおられるかもしれません。

しかし、里親制度には、現行の児童相談所にはない、 「仮」とはいえ本当の「親子の愛」があるのです。

少年犯罪、家庭内暴力など殺伐としたニュースの増える 現代社会において、人のために、地域のために、子供のために、 自分にできるこを精一杯させていただこうという、そして 人々が助け合い、人々を救うことで喜びを得るというこの里親和尚の心から、 私たちは学ぶべきことが多いのではないかと思います。

現在は少子化に伴い子供を多く預かってはいませんが、 里親制度とその精神は現住職の齊藤靖和師が引き継いでおります。